<子猫殺し告白>坂東さんを告発の動き…タヒチの管轄政府

(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060922-00000058-mai-soci)
先だって話題になった作家の坂東眞砂子の件の続報。率直に一言で感想を言うと…ああ、この人文学者なんだな、と。

こういう言い方をすると問題があるとは思うんですが、子猫を殺すことの是非という話だけであればここまで大事にはならなかったと思うんですね。語弊を承知で極論すると所詮ベクトルが違うだけという事になると思うので。


例えば、中世とか近世の話というわけではなく現代においても、『どんな理由があっても堕胎を認めない』と定めている宗派がキリスト教にありますし、何年か前話題になりましたが『例え実の子供であっても輸血を認めない』なんていう宗教なんかも在るわけです。私ら…というか一方から見ればそんなの明らかにおかしいと思うんですが、倫理とか道徳とかそう言ったものは社会とか歴史とかそう言ったものでいくらでも変化しうる代物でしか無いわけですから。(だからこそそういう状況の中で所謂蛮行が起きないよう、システムを作っていく、理解を深めていく努力が必要なんでしょうが。)


ですが、この人の場合、一部引用しますが、

だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。
 しかし、子猫を殺さないとすぐに成長して、また子猫を産む。家は猫だらけとなり、えさに困り、近所の台所も荒らす。でも、私は子猫全部を育てることもできない。
 「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。
 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。

じゃあ貴方は不妊手術をされることは絶対に嫌だが産んだ子供を攫われて殺されることは(少なくても前者に比べると)嫌では無いんですか?貴方にとってそのふたつは選ぶことが出来るような代物なんですか?と。
一方の立場において擬人化を使ってるのに対してもう一方に対しては『私だって辛いんだ』と他人事で済ませてしまっている為、この人がどういう考えでそれを書いたのか解りませんが、読んだ側としてはそういう印象を受けてしまうわけで。次に

避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。

これはもう完全にこの人の考え方です。この人は性を管理することは悪だけど命を摘むことは悪じゃないと考えている。だから実行した。言ってみればそれだけの話で、この人はその原理の元で脳内で物語を作って脳内で完結させちゃってるからもうどうしようもないというか自己陶酔の涙に埋もれて他所なんて全く見えていないというか見る気もないと言った印象を受けました。多角的な議論なんて言ってますがこの人自体がそれを拒否してるようにしか見えないんですが……私だけですかね?